乳がんについて
Trodelvy (トロデルヴィ)という薬のすごさを知るには、どうしても病気の知識が少し必要です。まずは”乳がん”という病気について背景知識を簡単に解説したいと思います。
がんとは
まずは”がん”という病気について簡単に解説です。
”がん”という病気は医学用語では”悪性腫瘍”とも言われます。そして悪性腫瘍と区別されるものとして”良性腫瘍”という病気も存在します。
この、”悪性”、”良性” を分ける1つの基準として
- 生命に重篤な影響を及ぼすか
という点が重要です。
がん(悪性腫瘍)を放置すると生命が脅かされる可能性が高い、だから何とかしてこれを取り除こうというのが、現代医学の考え方です。
しかし、”がん(悪性腫瘍)” に位置づけられている数々の病気は実は非常にバラエティーに富んでいます。
がんができる場所(部位)、どんな種類のがんか、どれだけ広がっているか(浸潤、転移)などで治療方法や治療の効果に大きな差があるのです。
また、乳がんのように塊として出現するがん(固形がん)もあれば、塊としては存在しないがん(血液がん)も存在します。
がんの治療について
生命を脅かす”がん”という病気に対抗するために人類は様々な治療法を開発し、それぞれを組み合わせることで治療を行います。
積極的な治療の代表としては、
- 手術(Operation)
- 薬物療法 (Medication)
- 放射線療法(Radiation therapy)
の3つが挙げられます。
基本的には、手術で取り除けるものは手術で取り除いてしまおうと我々医師は考えます。
そして、手術はしたものの取り残しや再発が懸念されるもの、または手術ができないケースでは薬物療法や放射線療法を組み合わせます。
ちなみに、がんの薬物療法と効くと、抗がん剤というイメージがあると思います。しかし、いわゆる”抗がん剤”以外にも色々な薬が “がん” の治療薬として使われます(ホルモン製剤やビタミンA製剤なんてのもあります)。
乳がんとは
ここで今回の本題である乳がんについての解説です。
頻度
乳がんのほとんどの患者さんは女性です(非常に稀に男性でも乳がんになる人がいます)。
実際の医療現場で使用されている “乳癌診療ガイドライン2022年版” を覗いてみると、2019年時点の統計でがんで死亡した女性156086人のうち14839人が乳癌で、大腸がん、肺がん、すい臓がん、胃がんについで5番目に多いという統計です(全癌死亡に占める乳癌の割合は9.5%)。
アナウンサーの小林麻央さんも乳がんを患っていました。そして女優のアンジェリーナジョリーさんは将来的に乳がんになる可能性を懸念し、予防的に乳房を切除したと一時期ニュースになりました。
実は乳癌という病気は珍しくありません。
種類
乳がんと一言で言っても、実は色々な種類があるのです。
乳がんの病変を顕微鏡で覗いた時の見え方も様々ですし、同じ見た目に見えたとしても、どれだけ生命を脅かす可能性が高いかという”性格(悪性度)”も様々です。
例えるならば、人間と同じです。
同じ人間と言っても、白人と黒人、アジア人では見た目が全然違いますし、同じアジア人でも色々な性格な人がいます。顔は良くても性格が最悪なんて人もいて、その逆もしかりです。

通常 “がん” という病変は顕微鏡で覗くと性格(悪性度)が分かることが多いのです(これを病理診断といいます)。
ただ、乳がんの場合はこれに当てはまらないことが多かったため、別の分け方が必要になりました。
乳がんの分類方法
では、乳がんの性格(悪性度)をどのように分類することにしたかというと、細胞の表面にあるタンパク質の種類で分類することにしました。
全ての細胞の表面には “受容体” と呼ばれるタンパク質がくっついています。
”受容体”というのは細胞のアンテナのような存在で、細胞の外の物質をキャッチする役割を担っています。ただどの “受容体”が細胞にあるかは、細胞の種類によって大きく異なります。

そこで乳がんの患者さんの細胞の”受容体”を色々と調べていくと、おおよその分類に使えそうな “受容体” がいくつかみつかりました。
それが、
- エストロゲン受容体(Estrogen receptors: ER)
- プロゲステロン受容体 (Progesteron receptors : PgR)
- HER2 (Human epidermal growth factor receptor 2)(ハーツーと読みます)
の3つです(他にもKi67 など色々ありますが、今回は割愛します)。
エストロゲンという物質を受け取る受容体がエストロゲン受容体(ER)、プロゲステロンという物質を受け取るのがプロゲステロン受容体(PgR)です(エストロゲンもプロゲステロンも女性ホルモン)。
また、エストロゲン受容体とプロゲステロン受容体の2つをまとめてホルモン受容体とも呼びます。
(参照:Biological subtypes of breast cancer: Prognostic and therapeutic implications)顕微鏡で覗くと同じように見える乳がんの病変でも、あるケースではホルモン受容体があって、別のケースではホルモン受容体が見当たらない乳がんが存在することが分かってきました。
乳がんの性格と受容体の関係
細胞の表面にある受容体の種類で乳がんを分類すると、便利なことが2つあります。
その2つとは、
- 見た目と性格がある程度一致すること
- オーダーメイドで有効な治療を選択できること
です。
見た目と性格がある程度一致するようになったこと
乳がんの見た目と性格が一致することは病気がどれだけ治療しやすいかを予想する上でとても重要です。
「この患者さんはホルモン受容体(エストロゲン受容体とプロゲステロン受容体)が陽性の乳がんだな。ならば治療をして治癒する可能性が高そうだし、手術とホルモン療法を組み合わせればこれくらいの効果は期待できそうだな。」
「こっちの患者さんはホルモン受容体(エストロゲン受容体とプロゲステロン受容体)が陽性の乳癌だけど、HER2 も陽性だな。これだと手術と通常の薬物療法だけだと足りなさそうだから、HER2 に効くハーセプチン®も一緒に使おう。フォローアップも注意して行った方がよさそうだな。」
という具合で、細胞の表面にある受容体という見た目から、性格(悪性度)を想定して治療方針に反映させることができるのです。
オーダーメイドで有効な治療を選択できるようになったこと
先程、「”受容体”というのは細胞のアンテナのような存在で、細胞の外の物質をキャッチする役割を担っています。」と解説しました。
じつはこの受容体の性質を利用して乳がん細胞を攻撃する治療法も可能になったのです。
「ホルモン受容体がある乳がんなら、そのホルモン受容体にくっつく薬(タモキシフェン)でがん細胞を攻撃しよう。(ホルモン療法)」
「HER2 (ハーツー)がある乳がんなら、HER2 にくっつく薬(ハーセプチン®)でがん細胞を攻撃しよう」
という具合です。
つまり、攻撃対象を狙い撃ちする薬物治療が可能になったのです。
このようにオーダーメイドの治療を行うようになり、がん細胞を狙った治療で高い治療効果を得ることができるようになりました。
トリプルネガティブ乳がん(Triple Negative Breast Cancer:TNBC) とは
では、今回の本題である “Trodelvy (トロデルヴィ)”が対象をしている乳がんは何かというと、それはトリプルネガティブ乳がん(Triple Negative Breast Cancer) と呼ばれるものです。
この、トリプルネガティブが何を意味しているのかというと、先程登場した3つの受容体(エストロゲン受容体(ER)、プロゲステロン受容体(PgR)、HER2 )の3つ全てが存在しないということを意味します。
実はこのトリプルネガティブ乳がん、乳がんの中でも特別な存在なのです。
その理由は
- そもそも、このトリプルネガティブ乳がんは非常に再発しやすく、予後が悪い
- 攻撃対象となる受容体がないので、今まで有効とされていた治療薬の効果が期待できない
というやっかいな特徴を持っているからです。
乳がん患者さんの約20%はこのトリプルネガティブ乳がん(TNBC)といわれていて、3年以内の再発率が非常に高いといわれています。そして、再発した場合の生存期間は他のタイプの乳がんと比較して短いのです。
(参照:国立研究開発法人 日本医療研究開発機構)ただでさえ再発して予後が悪いと言われているタイプの癌なのに、有効な治療薬がないとされていました。
そんな状況の中、新たな希望の光をもたらした薬、それがこの “Trodelvy(トロデルヴィ)” という薬なのです。
私が医学部生時代の知識では、トリプルネガティブ乳がんは有効な治療法がなくて、予後が非常に悪いというのが常識でした。
ところが2020年にこの Trodelvy という薬がアメリカで迅速承認され、しかもRoyalty Pharma がこの薬の開発に関わっていました。
初めてRoyalty Pharma の株を購入した時、私は2020年度のAnnual report を眺めていました。そしてこのTrodelvy という薬がポートフォリオの中に入っているのを知った時、医師として非常に衝撃を受けたのを覚えています。今までの医学の常識に変化が生まれたからです。
そして、この薬の存在はRoyalty Pharma の株式を購入する一つの理由にもなりました。
次のページでは “Trodelvy(トロデルヴィ)” について解説します。